広島ホームテレビ

原爆投下から81年 広島で祈り 香淳皇后の記録“天皇の妻”見た戦争

社会

 広島は81回目の「原爆の日」を迎え、現地では灯篭(とうろう)流しが始まりました。

■原爆投下から81年 広島で祈り

 原爆投下から81年。広島では灯篭流し始まりました。祈りの日です。

 昭和天皇の妻であり、上皇さまの母の立場から戦争はどう見えていたのでしょうか。

 去年秋、香淳皇后の人生を振り返る実録が公開され、いままで語られてこなかった事実が明らかになりました。

 そこに名前が出てくるのが斎藤誠治さんです。昭和天皇の元侍従で、1990年からは香淳皇后に仕えました。

元皇太后宮職参事 斎藤誠治氏(78)
「私にとっては優しいおじいちゃんみたいな感じだった。皇后さまはおばあさんですけど」

 実録には斎藤さんが日々、書き留めた業務日誌が引用されています。

元皇太后宮職参事 斎藤誠治氏
「毎日記録する、その時会った人や、どういう話をしたとか。本当に自分の記録です」

 1924年、久邇宮家の良子女王は昭和天皇と結婚。のちに香淳皇后となります。先に4人の娘が生まれ、最初の男子となる上皇さまが生まれたのは30歳の時でした。

 しかし、戦争が始まると、上皇さまはわずか10歳で栃木県に疎開。母と子は遠く離れ離れとなりました。

 昭和天皇と香淳皇后は御文庫と言われる皇居内の防空施設で暮らしました。

 香淳皇后実録から当時の暮らしぶりが分かります。

香淳皇后実録
「天皇と共に奥御食堂において海軍並びに陸軍の野戦兵食料理をお召し上がりになり、戦線を偲ばれる」

 実録には疎開する上皇さまに菓子やイチゴを贈ったこと、親元を離れて疎開する児童にビスケット41万袋を贈ったことも記されてます。

 その時の御歌です。

香淳皇后実録
「つきの世をせおふへき身そたくましく たゝしくのひよさとにうつりて」

 次の世代に向けた優しい眼差し。

 そして昭和20年、1945年8月14日、終戦の前夜。玉音放送は夜遅くに収録されました。昭和天皇は自らマイクの前に立ち、「終戦の詔書」を読み上げました。

 その夜、香淳皇后はどう過ごしていたのか、実録で初めて明らかになりました。

香淳皇后実録
「御用御多端の天皇をお気遣いになり、お見送り又はお出迎えになる。皇太后へ御贈進になる菓子をお作りになり、最初に作られた物を天皇にお贈りになる」

 夫を気遣う姿です。

 玉音放送が流れた15日正午には香淳皇后自らラジオのスイッチをつけ、女官とともに最後まで静かに聞かれたと記されています。

 その終戦の詔書は国立公文書館で今月6日から公開されています。

 昭和天皇が読み上げた原本です。

国立文書館 展示担当 鈴木隆春さん
「今、開かれているページは文書の文案が様々に修正され、通常はあまり起こらないが“紙を削って修正した跡”などが確認できる」

 実録には、その詔書を香淳皇后が何度も書き写す様子がありました。

香淳皇后実録
「10月20日、大東亜戦争終結の詔書を浄書される。25日にも浄書される」

 そして、疎開先から上皇さまが戻られると…。

香淳皇后実録
「午後、皇太子・正仁親王と共に御文庫において詔書をお読みになる」

 別の日には昭和天皇も一緒です。何度も上皇さまに読み聞かせていたことが分かりました。

元皇太后宮職参事 斎藤誠治氏
「(Q.詔書を読み聞かせていたことを聞いてどう感じる?)そういうことをよく理解して、子どもたちにも理解してもらいたいということだったと思う」
「(Q.香淳皇后と上皇さまの関わりは、どのように目に映っていた?)上皇さまご一家が週一度、金曜日、吹上(御所)に夕方から来られる。両陛下は楽しみにして、お子さんも一緒に連れてきますから」

 上皇さまは当時について、こう話されています。

上皇さま(当時66)
「香淳皇后について印象に残っていることは多々ありますが、戦後、親子兄弟が一緒に過ごす機会が多くなったころの香淳皇后の朗らかな印象は私の記憶に深く残っています」