エリザベト音楽大学 音楽文化学科 教授 福原之織氏


(平成27年8月27日に行われた「講演会とビアホールの会」での講演を紹介)
歴史と文化の香り漂う音楽の都ウィーン。豊かな自然にあふれた美しい国オーストリア。
二年余りの留学生活で得た学びは、人生におけるかけがえのない宝となった。
珍しい経験や楽しいエピソードを交えてお話ししていただく。

【講演の抜粋】
■ はじめに

◆オーストリアが私の音楽修行の地になったわけ
私の留学期間は1990年夏から1992年晩秋までの約2年あまり。この2年間はおそらく私の人生でもっとも輝いていた時間です。当時、ウィーン国立音楽大学でオルガンを専攻する場合、教会音楽コース、と演奏コースの2種類がありました。私は入学を許可された演奏コースに在籍し、学外では教会音楽コースの先生のセミナーに参加という形で充実した学びの時を過ごしました。
ウィーン市内と郊外に、国立音楽大学の校舎はコンツェルトハウスの横に本部がありますが、ほかにもいくつもウィーン市内と校外に校舎が点在しています。シェーンブルン宮殿の中には主に声楽専攻の学生が学ぶ校舎がありますし、楽器学の講義が行われる教室は王宮内の楽器博物館の館長室でした。そして、オルガンはなんとムジークフェラインの中にレッスン室がありました。

毎日、ムジークフェラインに練習に通った日々は本当に懐かしい思い出です。
パイプオルガンは、持ち運びのできない楽器です。その場に行かなくては、楽器に出合えない。その楽器が存在する場に自分が立つこと、その環境、空気に触れることが、オルガンを理解する、オルガン演奏を極めていくにはとても大切なことなのです。ですので、私は日本での学習に加えてどうしても、ヨーロッパで学びたい、と考えました。しかし、オルガンを学ぶなら、フランスやドイツ、イギリスを選択する人が多い中で、どうしてウィーンに留学するの?と当時はよく尋ねられたものです。
 どうしてウィーンなの?その答えとして、そこには私が学びたい先生がいらっしゃった、というのが最大の理由です。でも振り返ってみればウィーンという街は「オルガンの、というよりも音楽の歴史、音楽そのものを吸収できる街」でした。ウィーン国立音楽大学での講義では、バッハの息子が執筆した本がテキストとして使用され、300年前と現在が直結していることを実感しましたし、もちろん、町中いたるところにヴォルフガングくんやルードヴィヒくんのかつての住居が点在するわけです。そこでの生活では、大作曲家と同じ道を歩き、同じ鐘の音や馬車のひづめの音を聴く、という感覚の追体験があるわけですね。ウィーンでの2年あまり、研究、学習のみならず人々との交流、オーストリア各地での得難い経験は、その後の私の人生において様々な形で生かされることになりました。

数えきれないほどの思い出の中から、今日はオーストリアでの音楽修行で特に貴重な経験だったと思うことを3つご紹介したいと思います。

■ エピソード1:オルガン演奏会
◆小さな村の教会で
まず、一つ目はオーストリア各地でのオルガン演奏会です。

『インスブルック郊外 小さな村のオルガン』


『オルガンを練習する留学生時代の福原さん』

私が師事したDr.ルドルフ・ショルツ先生は毎年門下生全員に、オーストリア各地での演奏会を夏の課題として与えておられました。一人ずつ「どこそこの聖なんとか教会」と、住所と教会名だけ教えられ、自分で教会の方と連絡を取りなさい、と言われるのです。演奏会に向けたマネージメントをすべてドイツ語で(しかも時には強烈な方言のある)やりとりするという、日本人の私には過酷な試練でしたがおかげで、ふつう、まず行く機会はないであろう場所での美しい出会いがありました。
最初の年はインスブルックの市街地にあるイェズイテン教会でしたが、2年目はインスブルックからさらにバスを乗り継いだ山の中の小さな村の教会でした。 16世紀末に作られた古いオルガン。村の人たちは、修復を重ねて大切に保存し、誇りにしておられました。
演奏会後には村人総出の打ち上げパーティーでもてなされ、取り囲まれて「うちの村のオルガン、すばらしいでしょう?」「また弾きにおいで!」と口々に言ってくださったことは忘れられません。
そのほか、ウィーン市内ではVotiv教会(ウィーン大学のそばにあります)やリンツ近くのシュタイアーなどでも演奏会の機会を与えられました。

■ エピソード2:1991年秋…広島とオーストリア

◆一大イベント!ウィーン現地スタッフに任命
1991年。この年はどういう年であったか、みなさまおわかりになりますか?
ヒントは1791年です。この年は、モーツァルトが亡くなった年。そう、1991年はモーツァルト生誕200年記念という特別な一年でした。その年に、広島とウィーンにとって大きな出来事があったのです。
それは、広島交響楽団のウィーン、プラハ公演です。
広島交響楽団がウィーンの国連本部ホールとチェコのプラハで平和のためのチャリティーコンサート
を行う、という知らせを受け、留学して半年ほど経っていた私はウィーン在住広島県人として、現地スタッフというお役目をいただくことになりました。準備のために広響そして、広島オーストリア協会の事務局の方が数回ウィーンにおいでになり、いろいろな打ち合わせをいたしました。そのたびに美味しいごちそうにありつける、という貧乏学生には願ってもないうれしいお仕事でしたが、内容はかなりハードでした。ウィーン公演のポスターを市内のレコード店、楽器、楽譜のお店に掲示のお願いに回る、国連の担当の方と、公演中に同時開催される被爆の実相を伝える資料展示の打ち合わせをする、など、ドイツ語もままならない自分にはとうてい荷の重いことばかりでした。

◆「千羽鶴」は飾ってはダメ!?
思いがけず苦労したエピソードは、資料展示会場に「おりづる」「千羽鶴」を飾りたい、という広島側の意向をなかなか受け入れていただけなかったことです。飾るなんてとんでもない!といわれたのです。なぜだかおわかりでしょうか?理由はオーストリアの消防法に違反する、というものでした。会場に来た人がライターで火を付けたらどうするんですか?そんな燃えやすいものをたくさん飾るなど、この国では決して許されません」と一掃されました。「千羽鶴には広島の平和への願いが込められているのだ、これは平和を象徴する大切なモニュメントなのだ」と何度説明しても、担当の方はNein,と首を横に振るばかり。広島オーストリア協会の事務局の方と一緒に、ねばりにねばって最後にようやく条件付きで許可されたのですが、その条件とは「千羽鶴に防火スプレーをかける」ことでした。
広島平和文化センターから送られてきたパネルの裏に展示順の番号が漢数字で書かれていたことで、国連の方が理解できず、ぐちゃぐちゃな順番で展示されてしまい、当日あわてて直したことも今思えばなつかしいドタバタです。 広響の演奏会は、ウィーンの国連本部ホールでも続くプラハ城でも、大成功でした。音楽の力の偉大さを強く感じたとともに、広島の音楽水準の高さを多くの方が認めてくださったような気がして本当にうれしかったものです。そして、広島出身である自覚を一層強めることになった経験でした。

『ウィーン国連本部での広響コンサート(国連デー)』

さて、このお話しには後日談があります。

◆ウィーン国連本部でのボランティア
広響のみなさん、広島オーストリア協会の事務局の方々が帰国され、静かな日常で勉学の日々に戻ったある日、突然私が住んでいた女子寮に国連の方から電話がありました。「あなたにぜひお願いしたい仕事がある」と。「あなたにしかできないことだ」と言われるのです。一体何だろう、と思いながら向かった国連本部で私に与えられた仕事は「国連本部見学ツアーガイド選抜試験」の審査員でした。
皆様ご存じのとおり、IAEA国際原子力機関は国際連合の傘下にあり、その本部はウィーン国連の建物内にあります。国連本部見学ツアーのガイドさんは、国連の働きを見学者に紹介するだけでなく、様々な国連機関についての適切な説明も求められます。そして、世界中からの見学者のために、複数の言語を操る人でなくてはなりません。ドイツ語、英語、フランス語はもちろんのこと、イタリア語、ロシア語、ポーランドなど東欧圏の言葉、それに加えて韓国語や日本語を話せる、という人が応募してきていたのです。「ね、あなたでないと、できない仕事でしょ」と国連の方にウィンクされて候補者がきちんとわかる日本語を話しているかどうかを審査しました。
審査終了後は小さなパーティーが催されました。いろんな国の人がいました。審査した者、審査された者、合格者も不合格者も、国連の担当者もみんなで飲んで食べて、踊って歌って、と本当にすばらしいひとときでした。

■ エピソード3:カフェの「オペラの夕べ」

◆「オペラの夕べ」「朗読の夕べ」
3つめの思い出は、ウィーン市内、ナッシュマルクトと呼ばれる市場のそばにある、カフェのお話です。そのカフェは、テアター・アン・デア・ウィーンという有名な劇場の隣に位置していました。テアター・アン・デア・ウィーンは、ベートーヴェンが「フィデリオ」を初演した劇場です。
このカフェは年老いた女主人が一人で切り盛りし、水曜は「オペラの夕べ」木曜は「朗読の夕べ」というように夕方から日替わりのイベントを開催していました。「オペラの夕べ」には、オペラ座を定年退職した老オペラ歌手が交代でやってきて、女主人(素晴らしいソプラノです)と共にオペラやオペレッタのアリアを歌いまくる、という日です。ここでピアノを弾くアルバイトを、なんとウィーン国立音大のピアノの先生があっせんしていました。バイトを引き受けた友が病気になり、私は代役で数回つとめたのです。「オペラの夕べ」でのピアノ演奏は、それはそれは大変でした。その場で楽譜を渡される、ほとんど初見で伴奏しました。元歌手の方々とピアノの位置がとてつもなく離れているし、お年を召した彼らが歌詞を忘れたりして、いきなり曲中にワープ(つまり途中をすっ飛ばす)するので、いったい今どこを歌っているのか必死で聴きながら弾いていました。
朗読の夕べ、では女主人(マリアさん)が、「マリアカラスの生涯」といった書籍を30分以上朗読。そこに、大胆な色に染めた髪の毛を固めてメタルロックな格好をした若者たちが集ってきてビールなどを飲みながら静かに聞くのを見たときは、ほかに娯楽がないのか?と思ったほど。バブル全盛期大学卒業の私にはなんとも不思議な世界に見えたものでした。

◆豊かな時間の過ごし方
1990年当時、まだ衛星放送もケーブルテレビもなく、オーストリアには国営の放送局ORFの2チャンネルしかありませんでした。ちょうどNHKの総合と教育テレビ、みたいな感じ。それに日中は5時くらいまで番組がないのです。ヨーデルなどの民族音楽をバックに延々アルプスの風景が映し出され、画面の下の方にお天気やちょっとしたニュースがテロップで流れるといった具合。
人々は、朝早く起きて仕事をし、定時に退勤。夜はゆっくり家庭で過ごすか、オペラ座やコンサート、またはこのようなカフェでの芸術を楽しむ・・・なんだかタイムスリップして別の時代に来ているような気さえしたものです。

■ おわりに
◆ウィーン、わが夢の街、オーストリアへの感謝を込めて
ウィーンは、古き良き時代のまま・・非常に保守的だという人がいます。一方で刺激的で前衛的な新しい芸術の爆発のようなものを常に秘めている、という人もいます。本当に不思議な街です。
言えることは、芸術への愛にあふれた街、芸術への畏敬の念をもつ人々の国だということでしょう。

すばらしい街、ウィーン、
すばらしい国、オーストリア
そこが私の音楽修行の場であったことに感謝しています。
そこですごした時間、日本を離れ思い切り音楽に浸り勉強した日々。そこで出会った人々。
そのすべてが、今の私をつくっている、私の一部分になっていると思います。

帰国後、中学校、高等学校、小学校で音楽の授業者として、そしていま音楽大学の教員として
オーストリアの音楽修行で私の中に育ったものを少しずつこどもたち、若い人に伝えていく
それが、私には本当に大きな喜びになっています。

エリザベト音楽大学 音楽文化学科 教授 福原之織氏

(プロフィール)
エリザベト音楽大学卒業後、1990年よりウィーン国立音楽大学に留学。オーストリア各地で演奏会を行う。オルガン演奏第1ディプロムを審査員満場一致の最優秀で取得し帰国。エリザベト音楽大学大学院にて研鑽を積み、博士課程前期課程修了。
学校法人鶴学園広島なぎさ中学校・高等学校、なぎさ公園小学校で教職。なぎさ公園小学校校長、鶴学園初等中等教育研究センター長を務め、2012年より現職。
日本キリスト教団広島流川教会音楽主事(オルガニスト)。日本オルガニスト協会会員。日本賛美歌学会会員。