講演:協会理事、広島平和文化センター理事長 小溝泰義氏


(8月30日に行われた「講演会とビアホールの会」一部を紹介)
ウィーン勤務の際住んでいた「パン屋さん通り7番地」のエピソード。
築500年。フロイトの歳上の友人の住居で、フロイトも独身時代頻繁に訪れた家。
小説およびミュージカル「ニーチェが泣いた日」の舞台となった場所

【講演の抜粋】

 私の最初のウィーン勤務は在オーストリア日本大使館とIAEA法務部に勤務した1984年〜1992年の7年間、2回目は、IAEA事務局長の特別補佐官として過ごした1997年〜2002年の5年間、そして3回目は日本政府代表部次席大使として赴任し、天野大使のIAEA事務局長選挙当選のお手伝いもしました。

1回目の滞在では、ウィーンの北にあるグリンツィングという有名なホイリゲ街の近くに住み、ホイリゲになっているベートーベンが一時住んでいた家があったり、ホタルが出る大変いい所で子供たちと過ごしました。
2回目の滞在では、ハプスブルク家の夏の離宮であるシェーンブルン宮殿の近くに住み、宮殿裏の小路をリスや小鳥にえさをやりながら散策して楽しむといった豊かな環境で過ごしました。しかし仕事は大変で、核兵器拡散の危機を未然に防ぐ人しれない努力の過程で、尾行、盗聴、中傷、脅迫等にさらされながら、辛うじて防止をやり遂げるという日々でもありました。この時の体験と決意は広島に来させて頂けるようになった遠因の一つでもあると感じています。

 私が住んだところは、19世紀になるとフロイトの師匠筋にあたるヨーゼフ・ブロイアーという医者が住み、診察室もありました。多分私はその診察室に住んでいたのではないかと思います。そこには、ブラームスやグスタフ・マーラー、など当時一流の音楽家や文人、哲学者、思想家が患者として訪れていました。
ここを舞台にした小説が書かれています。「ニーチェが泣いた時」というタイトルで、ベストセラーになり、ミュージカルにもなっています。私が住んだところが小説の舞台になっているのです。この小説は、思想家ニーチェと精神分析医ブロイアーが医師と患者という立場を超えた精神的、思想的格闘をするドラマで、最後はブロイアー自身も自分の心の暗部に挑み体をはる極限までいくところで、初めてニーチェの心に大変動が起こり、感動の涙を流すという話です。ニーチェが重いうつ病になった際、ニーチェの元カノで文化人のロウ・サロメ(上記のリルケとも交際があった飛んでる女)がブロイアーに頼み込み、ニーチェには内緒で治療してもらうという筋書きです。なお、この小説が書かれた後で、ニーチェの友人がブロイアーに宛てて書いた治療依頼の手紙が発見された由です。小説に書いてあることが実際に展開されたかもしれないのです。

【協会事務局より】

8月30日に行われた「講演会とビアホールの会」の講演の一部をご紹介しました。
小説やミュージカルなどの舞台にもなった所に住んでいた家のエピソードを軸に、フルシチョフとケネディがシェーンブルン宮殿で会談した後の会食の会場にもなった場所(普段は開放されていないお城のような場所で、借り切っても一人4000円でフルコースが食べられるという秘密の場所)の話や、家の近くにある伝説の場所や宗教弾圧など歴史的背景を織り込みながらお話をいただきました。500年という年月を重ねた家に、世界的に有名になったエピソードがあるというお話。一地点でありながら歴史と文化の風に乗り世界へと広がってゆくという、ウィーンならではの時空感覚に魅了されたお話でした。

協会理事、広島平和文化センター理事長 小溝泰義氏

(プロフィール)
昭和45年外務省入省。国際原子力機関(IAEA)事務局長特別補佐官を皮切りに、在ウィーン国際機関日本国政府代表部大使、駐クウェート特命全権大使等を経て、外務省退職。平成25年4月から現職。