国際青年奉仕会の日本側担当者 フルート講師 ドイツ語翻訳家 植田恭子
ジーツィンスキーの『ウィーンわが夢の街』という有名な曲がございますが、私にとってウィーンはまさにわが夢の街、そして第二の故郷です。なぜこうもウィーンは私を惹きつけてやまないのかと言うと、20代で初めて留学したウィーンの印象が際立っているためで、何よりひとりのオーストリア人女性と出会があったからです。
彼女は名前をヘルミーネ ヘラーといい、私たちは彼女をFrau Dr. Hellerと呼んでいました。彼女は当時の私の大家さんでした。彼女はすでに亡くなってしまいましたが、今でも私の2番目のお母さんであることに変わりはありません。私はときどき思うのです。仮にこの最初のウィーン留学の体験が悲惨なものだったら、ウィーンに対し今と変わらぬ思いを抱いているだろうかと。これまでに一体どれだけウィーンを訪れたことでしょう。ヘラーさんのお陰でウィーンは思い出に溢れ、今なお私を魅了してやみません。つくづく彼女との出会いを有難く思います。
ヨーロッパの音楽界は9月に新しいシーズンがスタートします。最初の頃の私はオペラの大スペクタクルにすっかり魅了され、昼間は学校と練習、夜は連日オペラ通いでした。そんなある日、ヘラーさんが、「恭子はオペラにばかり通って、どうして歌曲(リート)は聴かないの」と聞いてきました。そして彼女の部屋で聴かせてくれたのがディートリッヒ フィッシャー ディースカウの歌うシューベルトの歌曲集「冬の旅」でした。それからしばらくして今度はフィッシャー ディースカウの歌曲の夕べに招待してくれました。その夜のプログラムはフーゴ ヴォルフとフランツ シューベルトの歌曲でした。オペラが熱狂的な熱い興奮を与えてくれるとしたら、歌曲はしみじみとした深い感動をもたらし、それは熾火のようにいつまでも心の奥底に残りました。その日を境に私は熱心に歌曲を聞くようになり、中でもシューベルトは私にとって最も大切な作曲家となったのです。
フランツ ペーター シューベルトは、ウィーンで生まれウィーンで亡くなったオーストリアを代表する作曲家です。彼は1797年1月31日、現在のウィーン市9区、当時はまだウィーン市には含まれていなかった周辺部のリヒテンタールに生まれました。
9区のヌースドルファー通りにある彼の生家は、現在では『シューベルト博物館』になっています。 シューベルトのお父さんは教師、後に自ら運営する学校の校長、お母さんは、結婚前は料理人でした。シューベルトのお父さんは、ごく早い時期からシューベルトの並外れた音楽的才能を見抜いていました。音楽教育はじきに父親の手には負えなくなったようです。美しいボーイソプラノの声を持っていたシューベルトは、宮廷礼拝堂の聖歌隊メンバーにも選ばれ、寄宿制神学校コンヴィクトで学びました。そこでは有名なイタリア人作曲家、アントニオ サリエリからも教えを受けました。
シューベルトの身長は160㎝足らずで低め、どちらかと言えば少々太っていたようです。髪はくるくるとカールし、唇は厚く短い鼻でした。極度の近視のせいで常にニッケル製のメガネをかけていました。
急に曲が閃いたときに、すぐに楽譜が書けるよう就寝中もメガネは外さなかったそうです。彼の友人たちは親しみを込めて彼に“キノコ”というニックネームを与えていました。
シューベルトは生涯独身で、報われない恋も何度かあったようです。17才の時1才年下の初恋の人、テレーゼ グローブに出会いますがこの恋は成就しませんでした。
ヨーゼフ フォン シュパウンをはじめフランツ フォン ショーバー、ヨハン マイヤーホーファー、ヨハン ミヒャエル フォーゲルなどシューベルトの友人たちは、作曲家としてのシューベルトを大いに助け、住まい、食事の賄から、彼が自由に練習できるピアノ、五線譜に至るまで提供しました。天才を目の前にしたとき、人はその人のために何かせずにはいられない、というよりはむしろ、その圧倒的なエネルギーに周りの人は巻き込まれてしまうのかもしれません。シューベルトを中心としたサロン“シューベルティアーデ”では、彼の友人の文化人たちが集い、彼はそこで自作の作品を発表していました。
シューベルトはその短い生涯に於いて、モーツァルト同様実に多くの作品を残しました。特に歌曲はおよそ600曲作っていて、彼が後の人々に“歌曲の王”と言われるのはそのためです。
シューベルトの芸術歌曲は、様式から見るとロマン派の時代に分類されます。“ロマン派の”という概念は、本来18世紀の文学に端を発し、“小説風の”あるいは“物語風の”という意味で使われていました。音楽に於いてはむしろ“感情の赴くまま”“情緒豊かな”といったキャラクターを意図しています。1800年から1850年にかけてはフランス革命の影響を色濃く受け、そこから“新しい市民階級”が生まれました。この立場からロマン主義的な生命感情を特徴づける、更なる特性が生まれました。例えば、永遠への憧憬(どうけい)、陽気さあるいは悲しみといった感情表現、恋の悩みなどです。同時に生や死の意味、場合によっては死へのあこがれについて熟考されました。作曲家や抒情詩人たちは森や水といった自然との結びつきの中で、言葉や音楽を通して個人的センチメントを表現しました。
シューベルトの歌曲のうち約70曲はドイツの大文豪ヨハン ヴォルフガング ゲーテのテキストによるものです。シューベルトはごく早い時期からゲーテのことを知っていましたが、ゲーテは彼の存在を全く知りませんでした。シューベルトは3度、自身の作品をゲーテに送りましたが、多忙ということもあったでしょうがシューベルトが無名だったということで、それらは彼の眼には留まりませんでした。シューベルトが天賦の才能に恵まれた類まれな作曲家だと、ようやくゲーテが気付いたときには、シューベルトはすでにこの世を去っていました。
シューベルトは25才の1822年以来、病に侵されていて、1828年11月19日、わずか31才という若さで亡くなりました。梅毒が原因ということです。しかし、実際に梅毒には感染していたようですが、死に至った直接の原因は水銀塗布治療がもたらす中毒症だったのではないか、というのが最も有力な説です。いずれにしましてもはっきりとした決め手になる証拠が乏しく、研究者たちにとってはもどかしい限りのようです。
ドイツロマン派の作曲家フランツ リストはシューベルトを世界中で最も詩的な作曲家と称しました。シューベルトの時代、歌の歌詞はイタリア語が主流でしたが、彼はあくまでドイツ語によるテキストにこだわりました。彼が暮らした街と人々が話すドイツ語が彼の音楽そのものだったのです。
今から34年前の夏の夜を、私は毎晩のようにヘラーさんと過ごしました。月明かりに照らされたバルコニーで、ろうそくの灯りのもと、彼女はしばしばゲーテやリルケの詩を語ってくれました。今なお悔やまれてなりませんが、当時の私の語学力ではその言葉の意味を理解することはできませんでした。しかし彼女の朗読はまるで音楽のように私の耳に心地よく響いたのです。
国際青年奉仕会の日本側担当者 フルート講師 ドイツ語翻訳家 植田恭子
(プロフィール)
エリザベト音楽大学器楽科フルートコース卒業。
同大学音楽専攻科、並びに音楽研究科修了後、オーストリア・ウィーン市立音楽院に留学し、1年間でティプロムを取得。その後グラーツ音楽大学でも研鑽を積む。
更に、2004年から一人娘がウィーンに留学している関係で、定期的にウィーンを訪れ、その都度ドイツ語インスティテュートでドイツ語を学んでいる。
現在はフルート講師、及びドイツ・ベルリンに拠点を置く、国際青年奉仕会の日本側の担当者として従事している。又、フリーランスの翻訳家としても活動中。