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第45話 「ローカル言語の行間」

僕は、日本全国47都道府県の「土地」を、全て踏んできた。
その土地の名物を食し、その土地の風景を望み、その土地の言葉を聞く。

方言。

各々の土地で、長い時間をかけて淘汰と進化を繰り返し、「今」に伝えられる「ローカル言語」。
この言葉たちが、その言葉を話す人たちの、個性を彩り、日本人であることの「意味」を与える。

ある言語学者が言いました。
「言語には限界があり、自分自身の存在を言語で証明することができない」、と。

記号化された「言語」、つまり、「文字」は、その「書き手」の存在を、常に、「疑うこと」ができる限り、完全には、本当の書き手を指定できないというのだ。

その文章を見ただけで、本当のシェークスピアが書いたといえるのだろうか?
その手紙を見ただけで、本当にヘミング・ウェイが書いたといえるのだろうか?

言語学最大の難問。
それこそが、「言語による自己の存在証明」なのである。

ならば、どんな言語を使おうとも、どんな表現を用いても、己の存在すら証明できない言語に、一体どれだけの価値があるというのだろうか?

僕が彼女に送った手紙は、本当に僕が書いたものである。
僕が彼女に伝えた思いは、本当に僕が語ったものである。

ある哲学者は言いました。
「人生は、『あっ』と言う間に終わってしまう。」、と。

もし、「言語」に自己の存在を証明する「力」が無かったとしても、僕たちは、「物語」を紡ぐ努力を怠ってはならない。
ならば、その短い『あっ』の中に、どれだけの言葉や物語を詰め込められのかどうか、挑戦してみようではないか。

ある冒険家は言いました。
「人生は、『あっ』という間に終わる前に、やらなければならないことがある。」、と。

言葉は、物語を紡ぐことができる。
その事実に偽りはない限り、僕は彼女への思いを書き続ける。
そして、少しでも「言葉」に、「意味」や「価値」を持たせるために、僕は、「行間」を使うのだ。

言葉と言葉の間に。
表情と表情の間に。
出会いと別れの間に。
喜びと悲しみの間に。

人生は、2つの感情の行ったり来たりかもしれないが、その二点の間に潜む「行間」にこそ、本当の「思い」があるのかもしれない。

標準語と方言。

果たして、「僕と彼女の間に」、何が生まれるのだろうか?
それを確かめるために、僕は、今日も彼女に「広島弁」で語りかけるのだ。

  • 11月11日生まれ
  • A型 さそり座
  • ICU 教養学部 数学専攻卒
  • 銀行員からTV業界へ転身した異色ディレクター
  • 好きな食べ物 すき焼・チョコレート・メロン
  • 好きな言葉 「移動距離とアイデアの数は比例する」
  • 将来の夢は直木賞作家
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