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7月25日(月) 「あの日、市民生活を支えた人たち(1)」〜広島電鉄のチンチン電車
「チンチン電車」として広島で親しまれている市内電車。原爆が投下されたあの日、車両はレールから吹き飛び、多くの乗客と関係者が被爆しました。しかし、わずか3日後、市内電車は再び動き出します・・・。復旧には電気を確保し、電線をかけ直すなど大変な作業を伴いました。
そして、電車を動かした人たち・・・。60年が経った今、いまだ市民の足として動き続けている「市内電車」を復活させた「あの日」を振り返ります。
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7月26日(火) 「あの日、市民生活を支えた人たち(2)」・・・断水を食い止めた広島市水道局
広島市水道は今年、被爆60周年にあたり、紙芝居とDVDの制作を行っています。(7月25日完成予定)そこに描かれているのは、原爆の日の出来事。広島市水道は今年で創設107年、その間一日も断水していないという不断水の歴史があります。つまり、あの原爆投下の日も、断水しませんでした。そこには非番にも関わらず浄水場に駆けつけたある職員の活躍がありました。被爆と同時に停電したために止まってしまった送水ポンプの復旧作業にあたり、午後2時頃に運転を開始させました。しかし、町の水道管は破損していたので、道路は水びだしに。生き残った職員たちは漏水修理作業に追われ、昭和21年4月、ようやく全てに水が届くようになりました。ほとんどの職員が今は亡くなった中、当時活躍した職員の息子や、父を探しに出た息子にお話しを伺いました。
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7月27日(水) 「あの日、市民生活を支えた人たち(3)」・・・火消したちの追憶
広島市消防局がまとめた「原爆広島消防史」。この中には、あの日、燃え盛る広島市内の火をなんとか消そうと必死の消火活動を行いました。消防士たちが見た広島が描かれていました。当時は空襲による火災に対する消火活動が消防の主な任務でした。しかし、原爆により大きな打撃を受けた広島消防は、その炎を前になすすべがありませんでした。
被爆した消防士、懸命の消火活動を続けた消防士。広島消防が経験したあの日の記憶をたどります。
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7月28日(木) 「あの日、市民生活を支えた人たち(4)」・・・日銀広島支店
1冊の帳簿。日本銀行本店に眠る、広島支店の帳簿記録は、昭和20年8月6日から8月15日が空白でした。金融面でも大混乱をきたすなか、原爆投下のわずか2日後から、大破を免れた旧日銀広島支店において銀行業務が再開されました。「一刻も早く現金を市民に払い戻してあげたい」その一心のもと、営業不能になった12の民間銀行に、仮営業所として窓口を区分しました。営業室からは青空が見え、雨の日は傘が必要だったといいます。そんな苦難の舞台であった日銀旧建物は60年が経過した今、全国のアーティストや団体が自由に思いを発信する平和の舞台へと生まれ変わっています。その復興の礎をたどります。
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7月29日(金) 「あの日、市民生活を支えた人たち(5)」・・・日赤・元看護生の証言
爆心地から南1.6kmの日赤病院は、鉄筋コンクリート部分の焼失は免れたものの、内部は天井は落ち、壁は崩れ、足を踏み入れることもできない惨状となりました。職員も医師5名を含む計51名が死亡、全職員の約8割が重軽傷をうけました。病院としての機能は全く失われたが、午後からは職員の努力で臨時収容所が設けられ、翌日には他県の日赤からも救護班が到着しはじめ、医療活動に入っていました。
自分たちも被爆しながら、まず収容患者の治療と外来患者への応急処置にあたった職員たち。彼らを動かしていたのは何だったのか。元看護学生に当時の模様を伺いました。
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8月1日(月) 「ヒロシマを発信(1)」・・・爆心地周辺を定点観測・安田女子大の取り組み
原爆が投下されて60年。爆心地付近は、すっかり整備が進み平和公園へと姿を変えています。
かつては繁華街だった爆心地。
60年目を迎えたことし、爆心地の周りを最新のハイビジョン撮影で残そうと取り組んでいる学生たちがいます。10年前に撮影していたものと比較できるよう、HPを立ち上げようとしています。
年々薄れていく原爆への意識。撮影を通して若い世代がどう感じたのか、60年目の今を追いました。
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8月2日(火) 「ヒロシマを発信(2)」・・・ 押し花絵芸術祭
今月31日から3日間、世界押し花絵芸術祭が広島で初めて開かれます。入賞した1800点が展示されます。入賞者の中には、被爆して助かったお兄さんからその惨状を昔から聞いていた女性。また県外出身の別の女性は大学から広島へ来て、結婚して子供を育てるうちに、子供達が学校で平和学習をして、また参観日には親も平和学習をすることに驚き、原爆や平和ということを考えさせられました。そして、押し花の作品展の度に”平和”に関する作品を作りつづけています。押し花は生きている花を摘み、それを永久に命のある絵に再生させる芸術です。これは広島が原爆の被害を受けた後、蘇り、都市として再生したことにつながります。今回の押し花絵芸術祭には人々のどんな想いがあり、何を発信することができるのでしょうか。
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8月3日(水) 「ヒロシマを発信(3)」・・・ドームを描き続ける〜被爆者 原広司さん
約20年間ずっと原爆ドームを描きつづけている原広司さん。
原爆が落とされた次の日に広島市内に入り被爆。
現在描いた数は1500枚以上。2000枚を当面の目標にきょうも描きつづけています。
水彩画で水は被爆者が多く亡くなった元安川の水で溶きます。
今年は60年を節目に画集も自費出版。反核を訴えます 。
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8月4日(木) 「ヒロシマを発信(4)」・・・講談師・緩急車雲助さん
呉市の出前講釈師の緩急車雲助さんは11年間、原爆を題材とした講談をしています。国内だけでなく、手弁当で3年連続ハワイでも講談をしています。今年はニューヨークでも。アメリカの子供たちにも平和を願うヒロシマの心を伝えたいという思いからです。去年からは原爆体験談の紙芝居も披露しています。これは実話で、制作した被爆者は去年亡くなりましたが、子供たちにも平和の大切さを伝えたいという思いから引き継いだのです。この紙芝居はこの夏、絵本にもなります。広島から全国の人に発信していきます。緩急車雲助さんは、広島の人たちへ、全国へ、そして海外へも…これからも平和を叫びつづけていきます。
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8月5日(金) 「ヒロシマを発信(5)」・・・対話ノートで振り返る原爆資料館50年の歴史
被爆から60年経った今でも、平和記念資料館に被爆資料が届けられています。資料館が開館して今年で50年。多くの人が訪れ、被爆展示を目の当たりにし、平和への思いを高めました。その証が「対話ノート」です。展示に対する意見を寄せてもらおうと置かれたノートは900冊を越えます。そんな訪問者が記した想いをまとめた本が出版されました。原爆資料館がこれまでどのような役割を果たしてきたのか…「対話ノート」を交え振り返ります。
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